血脇守之助(ちわきもりのすけ) ~野口英世の育ての親~

年譜 (1870~1947)
1870(明治3年) 「かど屋」に生まれる。
1877(明治10年) 我孫子尋常小学校入学
1885(明治18年) 講道館入門
1889(明治22年) 東京新報社入社
1890(明治23年) 新潟北米英語教師に就任
1893(明治26年) 高山歯科医学院入学
1895(明治28年) 医術開業医科試験合格
1896(明治29年) 野口清作と出会う。
1899(明治32年) 結婚
1900(明治33年) 東京歯科医学学校設立
1910(明治43年) 東京歯科医学校校長に就任
1912(明治45年) 日本歯科医学会会長に就任
1922(大正11年) 欧米へ医学視察・FDE常任理事
1926(大正14年) 日本歯科医学医師会会長に就任
1940(昭和15年) 功績への「謝恩の碑」建立
1946(昭和21年) 東京歯科大学設立
1947(昭和22年) 逝去(享年78歳)

謝恩の碑(手賀沼公園内)

謝恩の碑(手賀沼公園内)

血脇守之助自身のエピソード

我孫子宿旅館「かど屋」の長男として誕生しました。4歳で母親がなくなり、その後は祖父母により育てられます。血脇家の養子となり、血脇姓を名乗ります。我孫子尋常小学校では、杉山校長先生の指導の下勉学に励みました。後に、その指導に感謝をして杉山先生に伽羅の木を送りました。また、先生のなくなられた後もご家族と交友は続きました。その木は、現在、我孫子市役所にあります。

13歳になったころ、英語の大切さを感じ、英語を熱心に学びました。学校卒業後、以前から希望していた新聞記者を目指し、「時事新報社」に入社しますが、仕事中に大怪我をし、退社を余儀なくされます。

しばらく、我孫子で過ごした後、新潟県三条市で、英語教師となります。英語教師時代に、「ドクトル田原利」と知り合い、「歯科医」という職業があることを知り興味を持ちました。このことがきっかけとなり、歯医者を目指し、努力を始めます。23歳の時、高山歯科医学院に入学し、その2年後、医学院の講師兼幹事となります。会津若松の出張診療で野口清作と知り合い、その後、熱心に援助を重ね、世界的な医学者に育て上げました。

東京歯科大学、日本歯科医学への貢献

高山歯科医学院の経営を引き受け、東京歯科医学院を設立し、開校をさせます。その後、東京歯科医学校の校長となり、歯科医師の育成に努めました。また、明治36年に大日本歯科医会を創立し、一般医者から独立した歯科医を世間に知らしめました。さらに歯科医療の向上、歯科教育の振興にも力を注ぎ、大日本歯科医会理事、日本歯科医学会長、日本歯科医師会会長を歴任しました。

大正11年には、歯科医療を視察するために、欧米諸国を訪れています。アメリカでは、野口英世の計らいで、大統領を表敬訪問しました。関東大震災では、東京歯科医学専門学校が崩壊してしまいますが数年の歳月をかけ、校舎を再建しました。昭和15年には、関係者により、謝恩の碑が建立されました。昭和22年77歳で亡くなりました。

野口英世とのエピソード

資金援助と手の再手術

守之助が、野口清作と初めて会ったのが、明治29年8月でした。まだ、歯医者のいなかった会津若松に出張診療に出かけた時でした。知人の家の片隅で、医学書を原書で読んでいる野口清作を初めて知りました。その熱心さに感心し、東京へきた時は、訪ねてくるように伝えました。清作が上京し、生活に困っていた時、高山歯科医学院の門番兼小遣いとして住み込ませました。また、前期試験に合格した清作のため、後期試験に備え、多額のお金を援助しました。後期試験では、触診があるため、手の手術を東京帝国大学の助教授に無償で出来るように交渉し、手術を受けさせました。さらに触診のやり方も教わり、そのお陰で後期試験に1回で合格しました。

野口英世を世界の細菌学者に

守之助は、ペスト病原菌を発見した北里柴三郎の研究所に、研究に意欲を燃やす清作を入れるためにたいへん努力をしました。その結果、研究所に入ることが出来、細菌学へと進むきっかけとなりました。これをきっかけに、名前を清作から英世に改めました。

英世は、外国留学を強く望んで、資金も集まりましたが、出発間際になり、送別会でその資金の大半を使ってしまいました。その時、守之助は、英世の失態を攻めることもせず、自らお金を借り、留学の費用として渡しています。同じ船にアメリカ公使館書記官として、赴任する知り合いに面倒を頼んでいます。そのため、外交官なみの待遇でアメリカまでいくことが出来ました。

渡米後時には、フレキスナーの弟子となり、研究に没頭します。その間に守之助に手紙で近況や研究について報告を欠かしませんでした。また、英世が日本の学位が取れたのは、守之助の努力によるものでした。英世も恩義を忘れず、守之助が視察でニューヨークを訪れた守之助を最大級でもてなしています。ホワイトハウスで大統領に表敬訪問が出来るように努力しています。

大正十二年の関東大震災で、東京歯科医学専門学校がほとんど焼失してしまったとき、「高雅学風撤千古」(高雅で気高い学風は、決して失われることはなく、永遠に続くであろう)の書を送り激励しています。野口英世の死に際しては、学校を挙げて追悼会を開き、英世の業績をたたえました。また、努力と業績を広く知らせようと「野口英世記念館」の設立にたいへんな努力をしました。

血脇守之助がいなかったら、野口英世の業績はなかったとも言えるほど精神面、資金面で援助をし続けました。 20代にして野口の才能を見抜き、援助した血脇。野口への寛容を非難する声に対し「人それぞれに、おのずから異なった天分がある。野口は稀代の天才児で、これを型にはめすぎて律することは、彼の天分を大成させる所以ではない。」と反論しました。

野口は欧米視察でアメリカを訪れた血脇をつきっきりで世話をしました。血脇は「既往の私の世話を帳消しにして欲しい。」と申し出ましたが野口は、「私は日本人です。恩義を忘れてはいません。それに恩義に帳消しはありません。昔のままに清作とよびすてにしてください。」と言ったそうです。

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